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クアトロ・ラガッツィ2020/06/07

「天正遣欧少年使節」という言葉、記憶にないでしょうか? 歴史の教科書に出てきたような気がしますが、私はほぼ憶えていませんでした。

1582年(天正10年)、キリシタンの4人の少年がローマ教皇に謁見するため、長崎を出帆しヨーロッパへ派遣された、という歴史的な出来事です。

 

 偶然、「クアトロ・ラガッツィ」という本を知り、おもしろそうだと思い読んでみました。

 


 タイトル「クアトロ・ラガッツィ」はイタリア語、クアトロは4、ラガッツィは少年、「天正遣欧少年使節」として派遣された4人を意味しています。

 

出発時1213歳だった4人が帰国したのは8年5か月後。4人の他には随行員として修道士、神父や教育係など日本人、ポルトガル人、イタリア人など8人が同行していました。

 

私、特に歴史通ではないですが、それゆえ知らない事ばかりだったので非常に面白かった。

史実と筆者の調査結果や持論を交えたドキュメンタリーか論文に近い書き方です。著者は歴史やイタリア(言語も含め)に精通されており、自らイタリアにある古文書を調べたり複数の参考文献にあたったり、本書の完成に7年かけられています。

 

当時の日本の時代背景までこと細かに書かれていて、この部分も興味深い。ちょうどこの頃1617世紀で日本は戦国時代、織田信長→豊臣秀吉→徳川家康というリーダー変遷の頃。

この時代にキリスト教が入り込み、天下を取った武将がこれを利用するため保護したり、逆に弾圧したり、仏教界との衝突もあったりした激動期でした。

 

キリスト教が日本に入り普及していった流れをざっと紹介しますと

 

1549年、スペイン人のフランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を布教するため鹿児島に上陸したのが始まりです。

 この1517世紀はスペイン、ポルトガルが中南米、アフリカ、アジアの諸国を植民地化していった時代。

 ポルトガル貿易船が、植民地としたインドのゴア、マレーシアのマラッカ、中国のマカオを経由して定期的に日本に来ていました。

 ポルトガル、スペイン、イタリアなどのキリスト教の宣教師たちはこの貿易船に同乗して各国に布教に出かけていました。

 いわば海外貿易とキリスト教の布教はセットだったのです。

 

 ザビエル到着から3年後の1552年、ルイス・デ・アルメイダというポルトガル人が貿易船の船長として長崎に上陸します。

 彼は日本でキリスト教イエズス会の宣教師に出会って感化され、貿易で作った財産を何度となく寄贈し、特に豊後(大分)に日本で初の病院や孤児院を建設します。

彼は医師の免許も持っていました。学識もあり、医療の傍ら神父として九州内で広く布教活動も行い、多くの信者を獲得していきます。

 このようにして九州はイエズス会の布教活動の本拠地となっていったのです。

 

 さて、ザビエルの布教開始からちょうど30年後の1579年(天正7年)、アレッサンドロ・ヴァリニャーノというイタリア人が日本へやってきました。彼はインド、中国、日本などアジア地区を総括する巡察師として日本の布教活動を視察に来たのです。

 

 言わば本社の社長から命を受けた取締役が支社の仕事ぶりを視察に来るようなもので、絶大な特権を持っていました。

 

 ヴァリニャーノは滞在中、「キリシタンの2世の子供は改宗者ではないので生まれたときから真の信者で飲み込みも早く、ラテン語もすぐ憶える」と日本人が非常に優秀なことに気づきます。このことが少年使節をローマに送ることを考えるきっかけになるのです。

 

読み書き算術以外にキリスト教の教理も教える寺小屋のような学校はすでに各地の教会に併設されていたのですが、ヴァリニャーノはさらにエリートを教育する神学校を関西と九州につくることを計画します。この神学校のことをセミナリオ(苗床という意味)と言いました。苗からすくすく育てようという意図でつけられた名前でしょうか。

 

長崎のキリシタン大名である有馬(今の島原市)の領土にセミナリオが作られ、関西のセミナリオは信長の城下の安土につくられます。織田信長がキリスト教を積極的に保護したことはよく知られています。

 

すこし話がそれますが、実はこの安土のセミナリオ跡は安土城跡のすぐ近くにあります。信長もしばしば見学に来て生徒の奏でる楽器演奏などを聴いたそうです。

 

 

見に行ったら、こんな説明パネルがありました。

 


 

宣教師は本国から時計も持ち込んでおり、こんな授業時間割もすでに時計があったればこそできたのでしょうね。

  

さて、ヴァリニャーノ巡察師が少年使節をローマに送ることにした理由は

・ローマ教皇に日本協会の存在を知らしめ積極的な援助を得るため

・日本の信者の優秀さを知ってもらうため

・少年たちに他の国を見せ知らしめること、それを日本で伝えること

でした。

 

伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルティーノ、中浦ジュリアン(カタカナはキリシタンにつける洗礼名)という有馬のセミナリオで学ぶ4人が選抜され派遣されることになります。

本来、安土のセミナリオにいた優秀な少年一人が候補に挙げられていたのですが、急きょ決まった長崎からの出帆日には間に合わないことがわかり選にもれたというサイドストーリーも書かれています。

 

使節は下図のようなルートをたどります。

  

ヨーロッパでは相当数の都市を巡っていることがわかりますが、使節が来ることはヨーロッパ中に知れ渡り、招致がたくさん来て断りきれなかったそうです。

 

まずリスボンに上陸し、ポルトガル統治をまかされていた枢機卿アルベルトに謁見。スペインではフェリペ国王に謁見。

そしてメインイベントであるローマ教皇との謁見。

 

さて、日本語を含めた日本文化に接したポルトガル、スペイン、イタリア人はどんな印象を持ったのでしょうか?

私も外国人が初めて日本語に接した時、どのような印象を持ったのか非常に興味がありました。

 

ヴァリニャーノがイエズス会本部にあてて書いた報告書の中には日本語について書いた部分があります。著書からそのまま引用すると


「彼らのことごとくがある一つの言語を話すが、それらは知られているかぎり最も優秀なものであり、きわめて優雅であり、私たちのラテン語よりも語彙が豊富で思想をよく表現する」


「日本語には同一のことを意味する名称が数多くある上に、名誉を重んずる優雅な性質により、すべての人と事物に対し同一の名詞や動詞をもってすることが許されず、相手の人物や事物の階級に応じて、高尚、低俗、軽蔑、尊敬の言語の使い分けをしなければならない。さらに文語と口語は異なり、男女も非常に異なった言語を用いる。文語の中にも少なからぬ差異があって書状と書物では用語が異なる。日本語はこれほど種類が多く優雅なので、習得するには長い時間が必要である」

 

日本語の本質をよくとらえていると思います。現代でもそのままこのような印象を持つ外国人は多いでしょうね。

 

スペインのフェリペ国王に日本語の書簡を読み上げるところがあるのですが、この部分もそのまま引用すると

 

彼がその文を朗読しているあいだも、その文面や読みかたを見ようとしてその近くへ行き、どこから読みはじめるのかと訊いて、それがヨーロッパとはちがって上から下に読むのだと知って「珍事に驚嘆した」


また手紙の朗読が続いているあいだ、聞き慣れないことばや「奇妙なる発音」を聞いた王子や王女は笑いをこられきれなくなって、廷臣をはじめそこにいた人たちはみな、この情景に大喝采で大受けであった。


とあります。日本語が外国人にどう聞こえるのか、というのは日本人自身には想像もできないことなのですが、笑いを誘うような発音に聞こえたとは意外です。

 

さて85か月後の1590年(天正18年)7月、使節は日本に帰ってきます。帰国した時は秀吉の天下になっていました。翌年、秀吉に報告のため謁見します。

 

秀吉は当初、信長に倣いキリスト教に理解を示していましたが、いくつかのきっかけで考えが変わります。まず宣教師の国外追放、次に禁教令を出し、改宗や棄教しない者を処刑していきます。

 

行きはサポートも受け文字通り順風満帆で出かけたのに、帰国後は4人の使節たちにも逆風が吹きます。

4人はそれぞれ違った運命をたどりますが、この帰国後の動向も著書に詳しく述べられています。

 

ちょっと紹介が長くなりました。実はこの本はコロナ感染防止対策で図書館が休館になる前に借りていて読んだものです。

やっと図書館も再開されましたので、興味のある方はどうぞ。ばってんT村でした。


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