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心の友2024/02/23

 2月3日のオリーブ新年会は盛り上がりましたね。
各国の紹介の中で、インドネシアチームは歌を歌われましたがこれが日本語でした。
今回はこれをブログネタに。

 あの曲は五輪真弓の「心の友」という1980年ごろの歌なのです。
1983年、日本での五輪真弓のコンサートでこの曲を聞いて感銘を受けたインドネシアのラジオ関係者が、アルバム(レコードの時代)を持ち帰りインドネシアのラジオで流しました。
 これが大ヒット、インドネシア中に普及し、第二の国歌といわれるほどになったのです。

 その後インドネシア語歌詞もできましたが、日本語で普及しているので世代を超えて多くの人が日本語で歌えるそうです。インドネシアは親日国でもあります。

サビの部分はこのような歌詞です。

愛はいつもララバイ
旅に疲れた時
ただ心の友と
私を呼んで

 以下、wipipediaから引用
評判を受けた1986年、五輪がジャカルタでコンサートを開催し、1987年には日本での知名度は低いままだったが、第38回NHK紅白歌合戦で歌唱している。

2004年スマトラ沖地震の被災者たちが口ずさみ、心の支えになったと言われる。

2005年には、スマトラ沖地震チャリティ・シングルとして、五輪とDELON(インドネシア語版) がデュエットし日本で発売された。

2014年、駐日インドネシア共和国大使館公邸にて開かれたTV番組「Kokoro No Tomo POP!」の記者発表会で五輪とCHEMISTRY川畑要がデュエットで披露した。同発表会には安倍昭恵総理大臣夫人が来賓として出席した。

2015年には、ジャカルタで行われた第7回ジャカルタ日本祭り閉幕式で、五輪とロックバンドJ-Rocks(インドネシア語版)と学生による日本語ミュージカル劇団「en塾」の共演で披露された。

2023年6月、天皇・皇后の即位後初となる国際親善訪問としてインドネシアに国賓訪問した際、6月19日の午後にボゴール宮殿で開かれたジョコ大統領夫妻主催の昼食会において、インドネシア伝統の弦楽器ササンドゥによる演奏が披露された。
 以上引用でした。

 YouTubeで検索すれば、聞くことができます。口ずさみやすいメロディーで、いい歌詞です。
五輪真弓と言えば「恋人よ」がよく知られていますが、抜群の歌唱力ですよね。

 話変わって、新年会の最後に日本チームをはじめ皆で歌った坂本九の「上を向いて歩こう」ですが、時代はさらにさかのぼり1961年の曲です。
これは日本だけでなくアメリカで「SUKIYAKI」という曲名で大ヒットし、当時ビルボードヒットチャートで一位を取りました。

 他人が発表した曲を歌ったり演奏することをカバーと言いますが、「SUKIYAKI」は世界中でカバーされたもっとも有名な日本の曲となりました。
 契約に来日したレコード会社の社長は原題の「上を向いて歩こう」の意味が分からず、またそのままだとタイトルが長すぎるということもあり、会食した時に出たすき焼きが印象に残ったたため、それを曲名にしたと言われています。

 まあ、ネーミングが安易すぎると思いますが、フジヤマと合わせ、おかげでスキヤキは昔からよく知られる日本語となりました。

 英語歌詞を調べてみると、こんな内容です。オリジナルとは違い、失恋か別れの歌になっていますね。

It's all because of you
I'm feeling sad and blue
You went away
Now my life is just a rainy day and I love you so
How much you'll never know
You've gone away and left me lonely

 カバーといえば、韓国の歌だと1983年頃、チョー・ヨンピルの「釜山港へ帰れ」がヒットし、日本でも日本語版で大ヒットしました。
 韓国語のオリジナル歌詞は港で兄弟を待つ話なのですが、日本語歌詞では帰ってこない男を待つ女性の心情を描いたものに替えられています。

日本語はこんな歌い出しです。

椿咲く 春なのに
あなたは 帰らない

 今でこそK-POPや韓流ドラマなどで韓国も身近になりましたが、多分1988年のソウルオリンピック前後の1980年代が小さい波ながらも最初の韓国ブームだったのではないかと思います。

 NHKのテレビ、ラジオの語学講座で「ハングル講座」という名称で初めて韓国語が登場したのが1984年でした。
 個人的なことですが、仕事で韓国出張が多くなったこの頃、テキストを買ってちょっとだけ独学で韓国語をかじりました。
 勉強ついでに「釜山港へ帰れ」やいくつか韓国の曲を発音が合ってるかなど無視して丸暗記で韓国語で覚えたこともありました。

 ハングル文字を憶えて役立ったのは、現地でバスや電車などの地名や駅名、店の看板、食堂のメニューなどが読めたこと、韓国の人とカラオケに行ったときに画面上の歌詞が読めたことです(意味はほぼ分からず、歌詞を読むのも遅いので曲についていけないことが多かったですが)

 残念ながら会話の方はあまり上達しませんでした。
というのも、1980年代の韓国はオリンピックを契機にした高度成長期で日本をお手本にしていました。
 そのため日本語学習が盛んで出張先の会社でも始業前や就業後に従業員が日本語を熱心に勉強しているところが多かったのです。
 日本語の習得が昇格の条件になっているところもありました。

 従って、出張先の仕事ではほぼ日本語で事足りていて不自由することはありませんでした。お昼休みも、勉強している日本語を試そうという若い社員がやってきて日本語でよく話しかけられました。

 今は日本のアニメや文化がインバウンドや日本語ブームをけん引している状況ですが、どのような動機にせよ日本語に興味を持ってもらうのはいいことだな、と思います。
ばってんT村でした。

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