★オリーブホームページはこちらからどうぞ!

落日の宴2023/01/15

前回に続けてですが、読んだ本の紹介です。

 1853年にペリーがアメリカから軍艦を連ねて開国を迫ってきたことはよく知られているところです。
 このペリー来航のわずか1か月後、ロシアからも長崎に軍艦が来航していました。これはあまり知られていないかもしれませんね。

船団を率いてきたのは海軍中将で政治家でもあるプチャーチンという人物です(プーチンではないですよ)
 もちろん、ロシアも江戸幕府にとってたいへんな脅威となりました。

 ただ、長崎だけ開港していた鎖国政策を無視してペリーは強引に江戸湾まで出てきて脅したのに比べ、プチャーチンは日本の国法を守ってまず長崎へ来たのでした。
今の無法で威嚇的なロシアとは違い紳士的だったのです。

 ただ、対応をひとつ間違えば武力にものを言わせ戦争になったり、植民地化される恐れは十分ありました。
 交渉の責任者になったのが、川路聖謨(かわじ としあきら)という勘定奉行の筆頭でした。
頭脳明晰、冷静な判断力を兼ね備え幕府から高く評価されていた人物です。

 この川路とプチャーチンの交渉を中心に描かれたのが本書です。
内容はちろん史実で日記や日露双方の記録、資料をつぶさに調べて著者はストーリー化しています。



 ロシア皇帝から全権を委任されたプチャーチンが優れた識見を持っていることを川路は見抜き、尊敬と親愛の情をいだいた、とあります。
川路の日記にも
「この人は第一の人にて眼差しただならず。よほどの者なり」
と記していました。

 一方、プチャーチンも同じように川路を高く評価していました。
同行した彼の秘書が日本渡航記に
「川路を私達はみな気に入っていた。川路は非常に聡明であった。彼は私たち自身を反駁する巧妙な弁論をもって知性をひらめかせたものの、なおこの人を尊敬しないわけにはいかなかった。彼の一言一句、一瞥、それに物腰までが・・・」
と書いているのです。
川路はユーモアのセンスもあったそうです。

 1回目の来日で交渉はまとまらず、翌年プチャーチンは再訪、交渉の場は伊豆の下田に移ります。
でも、到着後そこでロシア船はえらい目に遭うのです。
安政の大地震による下田を襲った大津波で滞在中に船が損傷、最後には沈没してしまいます。
 しばらくしてロシア側の設計の元、日本から大勢の宮大工が新しく帰国用の船を造ったそうです。

 これら万難を排した交渉の末、日露和親条約が結ばれますが、この時に北方領土の国境も定められ択捉島まで四島は日本領土と定められたのです。

 ちなみに交渉はオランダ語で行われました。これは当時日本がオランダと中国としか交易していなかったためです。
 アメリカやロシアはこのことを知っていたので、必ずオランダ語と中国語の通訳を同行させていました。ロシア語-オランダ語―日本語と二重翻訳になっていたのですね。

 ロシアとの通訳を主に担ったのは森山栄之助という人です。ペリーとの交渉時の通訳の腕を買われたのです。

 オランダ人よりきれいで正確なオランダ語を話す、とオランダ人からも言われていたそうです。
この森山栄之助については昨年2月のブログで「海の祭礼」という著書で紹介しています。
 さらに森山は、漂流して日本に来たアメリカ人に英語を教わり、英語も驚くほど上達したそうで、語学のセンスがあったのですね。

 歴史の表舞台には出てこないけれど、陰で重要な責務を果たしたこのような人物の物語を知るのもおもしろく興味がつきません。
ばってんT村でした。

★コメント・トラックバックは内容確認後公開しております
★オリーブホームページはこちらからどうぞ!